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猪谷千春氏・1956年オリンピック当時 |
第7回イタリア・コルティナダンペッツォ大会での、猪谷千春さん(1931年5月20日生)だけです。
それが1956年の1月31日のことでした。
種目は、スキー男子回転(スラローム)。
一本目
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猪谷千春一本目の滑り |
スラロームは二本の滑走の合計で争うのですが、この一本目では1位から3位までのタイム差が0.3秒と接近していて、3位から4位までが1秒以上離れ、猪谷選手は5位の選手からさらに1秒遅れていました。
3位の選手と2秒6離れていて、普通の流れでいけば、メダルには厳しい状況です。
1st RUN
Rank | Name | Age | Nation | Time | |
---|---|---|---|---|---|
1 | Toni Sailer | 20 | Austria | AUT | 01:27.30 |
2 | Adrien Duvillard | 21 | France | FRA | 01:27.50 |
3 | Brooks Dodge, Jr. | 26 | United States | USA | 01:27.60 |
4 | Georges Schneider | 30 | Switzerland | SUI | 01:29.00 |
5 | Stig Sollander | 29 | Sweden | SWE | 01:29.20 |
6 | Chiharu Igaya | 24 | Japan | JPN | 01:30.20 |
二本目
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猪谷千春二本目の滑り |
細かいターンが続くので日本人向きであると考え、猪谷選手は一か八かの勝負に出てスタートから飛ばそうとします。
しかし力んでしまったのか、スタート直後の6番目の旗門でポールを両足ではさむような形でぶつかりそうになりました。
当時のポールは、現代のバネの入った可倒式ポールと違い、直径5センチはあろうかという丸太のようなものでしたから、そのままぶつかればポールを倒して片足通過反則となるか、スキーヤーが転倒するか、どちらかしかありません。
猪谷選手はぶつかりそうになりながらも、内側の膝を180度開いてその旗門をよけていったといいます。
この姿勢が実際どういう形なのか、なかなか想像できないところですが、多分今の硬いブーツではできなかったでしょう。
革で出来た、比較的短いブーツだったからこそ可能だったよけ方であったのだろうと思います。
当時の日本チームの監督は「そのまま倒れずにアクロバットのように滑っていく」と書き残しています。
猪谷選手はそのまま強引とも思えるスパートを続け、それまでのベストタイムをなんと5秒以上も短縮するタイムを叩き出しました。
二本目のタイムは、一本目二本目ともベストタイムを記録したトニー・ザイラーに続く二位、全体でも二位という結果となりました。
ただし他のチームからの抗議もあり、反則があったかどうかの判定は、公式の成績発表がある午後6時まで分かりませんでした。
反則になるかならないかぎりぎりのところで、反則と判定されれば5秒の加算ペナルティとなってしまいます。
関係者一同たいへん心配したのですが、結果は反則とみなされず、猪谷選手の二位が確定しました。
これは、日本初の冬季オリンピックのメダルというだけではなく、ヨーロッパ人以外で初めてのメダルでもありました。
参考「全日本スキー連盟 記録に見る日本のスキー競技史 1956年(昭和31年)第7回冬季オリンピック」
参考「渡り鳥のスポーツ日記 コルティナダンペッツォ五輪と猪谷千春の銀メダル獲得(1956年)」
2nd RUN
Rank | Name | Age | Nation | Time | |
---|---|---|---|---|---|
1 | Toni Sailer | 20 | Austria | AUT | 01:47.40 |
2 | Chiharu Igaya | 24 | Japan | JPN | 01:48.50 |
3 | Stig Sollander | 29 | Sweden | SWE | 01:51.00 |
4T | Georges Schneider | 30 | Switzerland | SUI | 01:53.60 |
4T | Gérard Pasquier | 26 | France | FRA | 01:53.60 |
4T | René Rey | 27 | Switzerland | SUI | 01:53.60 |
Final
Rank | Name | Age | Nation | Medal | Time | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | Toni Sailer | 20 | Austria | AUT | Gold | 03:14.70 |
2 | Chiharu Igaya | 24 | Japan | JPN | Silver | 03:18.70 |
3 | Stig Sollander | 29 | Sweden | SWE | Bronze | 03:20.20 |
4 | Brooks Dodge, Jr. | 26 | United States | USA | 03:21.80 | |
5 | Georges Schneider | 30 | Switzerland | SUI | 03:22.60 | |
6 | Gérard Pasquier | 26 | France | FRA | 03:24.60 |
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1956年オリンピック・アルペンSLメダリストたち |
この時、猪谷選手は24歳、トニー・ザイラーは20歳の若さでした。
前後の大会
猪谷選手のオリンピック出場は、この時だけではなく、前後三大会に出ています。
1952年 第6回ノルウェー・オスロ大会
滑降24位 大回転20位 回転11位
1956年 第7回イタリア・コルティナダンペッツォ大会
滑降失格 大回転11位 回転2位(銀メダル)
1960年 第8回アメリカ・スコーバレー大会
滑降34位 大回転23位 回転12位
参考「全日本スキー連盟 Olympic Winter Games オリンピック出場選手全記録 (PDF)」
1960年大会には回転競技での金メダルを狙って出場したと、猪谷氏は後年のインタビューで語っています。
この時は、一本目が終わった時点で、1位と2秒1差、2位タイと1秒1の差6位だったので、二大会連続のメダルの可能性は十分ありました。
これが、単に大口を叩いていたのではないことは、1958年の世界選手権での成績が証明しています。
1958年 世界選手権オーストリア・バドガスタイン
滑降15位 大回転6位 回転3位(銅メダル) 3種目複合4位
参考「全日本スキー連盟 アルペン世界選手権大会出場選手全記録 (PDF)」
これらの記録を見ると、オリンピックにしても世界選手権にしても、出場していたのは回転競技だけでなく、大回転、滑降と全種目に出場していたのが分かります。
しかも、1958年の世界選手権では3種目複合で4位と、メダルまであと一歩であったことも驚きです。
※アルペン複合は、オリンピックでは1948年大会を最後に1988年大会まで行われていませんでした。
※アルペン競技で「スーパー大回転」が行われるようになったのは1980年代からです。
トニー・ザイラーその後
因みに、1958年の世界選手権でもトニー・ザイラーは超人ぶりを発揮し、回転で銀メダルに甘んじたものの、回転を除く三種目全てで金メダルでした。
しかし、人気者になって映画に出演したのが災いし、当時厳しかったオリンピックのアマチュア規定に抵触して、次のオリンピックには出場できないことになってしまいました。
そのため、1958年22歳の若さで現役を引退しています。
あと10年現役を続けていたらどんな記録を達成したか、惜しんで余りある選手でした。
引退後は、本格的に映画スターの道を歩みましたが、スキーコーチとしても後輩選手を導き、アルペンスキー王国としてのオーストリアの隆盛に大きく貢献しました。
映画スターとしては多くの映画に出たため、ザイラーの超絶の滑りは今でもたっぷり見ることができます。
以下のリンクは、日本で企画された映画「銀嶺の王者」(1960年)のひとこま。
蔵王や八方尾根のナチュラルな雪面を自由自在に滑りまくります。しかも速い!
トリッキーな連続キックターンにもあきれて下さい。(6:56〜7:20)
参考「YouTube 1960年 銀嶺の王者(トニーザイラーの滑り)」
コーネリアス・バンダー・スター
猪谷選手がこの時期に安定した成績をあげることができていたのは、当時アメリカに拠点を構え、ヨーロッパのレースにも積極的に参加していたことが、影響していたと思われます。
どうして猪谷氏がアメリカに留学できていたのか、ということですが、これにはアメリカの保険会社AIG創業者のコーネリアス・バンダー・スター氏が大きく関係しています。
スター氏は米国カリフォルニア州出身の起業家で、1919年、27歳の時に中国・上海で起業して、中国人に初めて保険を売った西洋人として知られています。
そのスター氏の会社(AAU=American Asiatic Underwriters)が現在、グローバルな保険グループとして知られる、AIGの始まりです。
戦後の1946年、スター氏は当時日本を占領していたGHQの要請に応える形で日本に支社を作ります。
当初は、アメリカ軍人だけを相手にしていたのですが、1949年からは日本人を対象とした営業を始めています。
これが現在の「AIU損保」「アリコジャパン」「アメリカンホーム」などの保険会社へのつながっていきます。
参考「Wikipedia アメリカン・インターナショナル・グループ」
スター氏の提案
スター氏は、ネットなどを見るといろいろ毀誉褒貶の激しい人物のようですが、自らスキー場を経営するほどのアルペンスキー愛好家という側面がありました。
そして、1952年の第6回オスロ大会の直前の1951年12月に、日本選手への援助を申し出てくれたのです。
この時スター氏は59歳。
この1952年大会は、日本が戦後初めて招待されたという、国際社会への復帰を象徴するオリンピックでした。
(夏季オリンピック・ヘルシンキ大会は同年7月)
スター氏の提案により、アルペン複合の猪谷選手と水上久選手が、大会に先立ってオーストリア・サンアントンでの事前合宿を行うために、12月22日に日本を出発できることになりました。
日本選手団の本隊より1ヶ月も早くヨーロッパに入れたことになります。
これは、当時の日本と本場ヨーロッパのスキーの差(用具・技術など)を知るのに大きな効果があったのです。
参考「渡り鳥のスポーツ日記 オスロ五輪(1952年)」
ダートマス大学に留学
オスロでの成績を受けて、スター氏は猪谷選手の可能性を大いに感じたようです。
そして、「このまま日本に居たら入賞も出来ない。アメリカに来れば君はメダルを取ることが出来るだろう。お金を出すからアメリカに来ないか。」という提案をしてくれました。
この誘いを受けて、翌1953年ダートマス大学に留学。
以降4年間、この大学を拠点にスキーに打ち込み、後半2年間はチームキャプテンを任されるほど周囲の信認を得ていたということです。
参考「特定非営利活動(NPO)法人 日本オリンピアンズ協会 猪谷千春さんインタビュー」
1956年大会での猪谷選手の快挙は、当然日本で大きく報じられたのですが、ダートマス大学のある州の隣の州の地方紙でも、「ダートマス大学に在籍している小柄な日本人のチハル(Chic)イガヤが、抗議があったにもかかわらず、二位」、と報じられています。
抗議をしていたのは、三位になったスエーデン選手のアメリカ人コーチだったようです。
参考「Dartmouth’s Igaya 2nd, Despite Heated Protest」
AIU保険会社
1957年にダートマス大学を卒業、1958年世界選手権出場の翌年、恩義のあるスター氏の会社AIU保険会社に就職しています。
なので、1960年のオリンピックの時は同社の社員でした。
スキー競技引退後は、企業人として活躍し、AIU保険会社日本支社長、AIU日本法人の社長、会長、名誉会長と上り詰めて行きました。
社長になった時は47歳の若さでしたが、それでも目標としていた45歳より遅かった「だから銀メダルかな」、とおっしゃるのですから、メダルを取るような人はそもそも心構えが違いますね。
参考「特定非営利活動(NPO)法人 日本オリンピアンズ協会 猪谷千春さんインタビュー」
wikipediaによると「現在名誉会長」となっていますが、2008年11月30日付けで退職されています。
参考「火災保険をもっと分かりやすく! AIUの名誉会長猪谷千春氏が退任」
IOC委員として
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猪谷千春氏近影 |
IOC委員として
1982年から国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、理事を2回にわたり経験(1987年 – 1991年と1996年 – 2000年)。長野オリンピックの招致活動から開催に至るまでを支えた。
2005年シンガポールで開かれたIOC総会で副会長に当選。
2006年のトリノオリンピックでは、副会長として現地入り。男子回転の表彰式でプレゼンターを務めた。この際、日本の皆川賢太郎が大健闘。終盤まで3位につけ、日本人で唯一のアルペン競技メダリストである猪谷の手での同胞へのメダル授与が実現するかと思われたが、最終競技者が皆川を上回ったためこれは実現しなかった。しかし湯浅直樹も7位に入ったため日本アルペン史上初となったオリンピック同一種目の複数入賞を見届けることとなった。
2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し、名誉委員に就任。
2012年8月より、東京都スキー連盟会長に就任。
引用「Wikipedia 猪谷千春」
いしころは、東京都スキー連盟にちょこっと関係している人間なので、猪谷千春さんは伝説の人なのですが、自分にとっては遠い親分筋みたいな方にあたります。
2015年1月31日現在、御年84歳と8ヶ月。1956年1月31日の伝説が生まれてから、59年が経ちました。