ちょっと行ってみたいところ − その4.ピトケアン島

2014年12月28日 10:30
 

ちょっと行ってみたいところ ー ピトケアン島


ピトケアン島というのは、長い年月にわたって世界からその存在をほとんど無視されてきたような島です。
 
それが、ここ数年で劇的にその状況が改善されて、ある意味いきなりトップレベルの環境を得てしまいました。
その結果、南太平洋でおそらく唯一の先進事例が見られる島になっています。
 
何が見られると思います?

空のネットワーク


環太平洋の空港
google map

こちらの太平洋の地図にズラリと並んでいる赤丸がなにかというと、これはすべて空港なのです。
世界には実にたくさんの空港があることを思い知らされますね。
 
この地図の灰色の四角に囲まれた部分を拡大したのが、こちらの南太平洋の地図です。

南太平洋の島々の空港
google map

ここでも赤丸は空港を示しています。
 
右下に見える「A」の赤丸が、石像モアイで有名なイースター島(チリ領)のマタベリ空港。
イースター島の周囲には他の島はなく、孤島です。
 
地図の左側に、散らばっている赤丸の群れが、フランス領ポリネシアの島々。
左端にある文字の真ん中にも、見えにくいですが赤丸があります。ここがタヒチ島(パペーテ空港)です。
 
フランス領ポリネシアの島々が充実した空のネットワークで結ばれていることが分かります。
フランス領ポリネシアにも地形の制約などにより空港のない島はありますが、互いにそれほど離れているわけではないので、近くの島まで行けば、空路にありつけるところがほとんどとなっています。
 
地図の中央部の下、左寄りにある赤丸が、ガンビエ諸島のマンガレバ島の空港で、ここもフランス領ポリネシアです。
そのマンガレバ島から、東南東におよそ400kmあまりの位置にある「X」印が、今回取り上げるピトケアン島です。

ピトケアン島
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ピトケアン島


ピトケアン島空撮
ピトケアン島空撮

イギリス領です。現地での読み方は「ピッケン」に近いのだそうです。
 
東西2.5km、南北に2kmほどの小さい島です。
ピトケアン島は5つの島からなるピトケアン諸島に属していますが、他の島はどれも無人です。
 
そして、ピトケアン島に空港はありません。
400km先のお隣マンガレバ島との間に年に8往復だけ、貨客船が運行されています。
 
島の産業は、漁業と農業で、自給自足です。
ヨットなど、外洋からやってくる船に水や食料を売ったりもします。
外貨を稼ぐため、蜂蜜の販売、切手を発行などを行っています。
また、近年はドメイン名「.pn」の販売にも力を入れています。
ちなみに人口は、最盛期には300人近くいたのですが、2013年時点で56人です。
 
住民は、イギリス人とタヒチ人の混血であるピトケアン人です。

言葉も、英語とタヒチ語の混ざった言葉を使います。
 
どうしてこの組み合わせなのでしょう。
 

グーグル・ストリートビュー


上のほうで、「南太平洋でおそらく唯一の先進事例が見られる島」と書きました。
 
それは、グーグル・ストリートビューです。
この島は、グーグル・ストリートビューで島内を見て回れる島なのです。
 

ピトケアン島+ストリートビュー
google map

南太平洋の島々で、こんなことが出来るところは、少なくとも2014年12月の時点ではここだけです。

ピトケアン島ウォーキング
google map

上で述べた混血の組み合わせと、この突出した先進事例は、実は歴史で深くつながっているのです。

発見


15世紀頃までは、ポリネシア人が住んでいたことが、考古学的に明らかになっています。
しかし、1606年にスペイン人ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスによって発見された時には、島は無人になっていました。。
 
名前の由来は1767年、世界一周探検航海中のイギリス海軍のフリゲート艦スワロー号(Swallow)の士官候補生ロバート・ピトケアンによって再発見されたことによります。
ピトケアンは当時15歳で、見張り番に立っていてこの島を発見したのでした。
 

バウンティ号の反乱


1789年4月、イギリス海軍の武装船バウンティ号で、艦長に対する反乱事件が起こりました。
この事件は、当時大きな話題となり、その後多くの文学作品や映画のテーマとなりました。
 
映画だけでも5本の作品となっています。
 『The Mutiny of the Bounty』(1916年)
 『In the Wake of the Bounty』(1933年)
 『戦艦バウンティ号の叛乱』(1935年)
 『戦艦バウンティ』(1962年)
 『バウンティ/愛と反乱の航海』(1984年)
 
このうち最初の作品を除く4本はすべて同じ小説「戦艦バウンティ」(1932年)を原作としています。
 
このように、小説や映画で「戦艦バウンティ」と呼ばれていますが、実際には武装船といっても、タヒチ島からパンノキを西インド諸島に運ぶ任務のために、イギリス海軍が貨物船を買い上げて臨時の軍艦とした徴用船で、小型の船舶でした。

パンの木


タヒチ島(南太平洋)からパンノキを西インド諸島(カリブ海)まで運ぶ、というのはどんな任務だったのでしょう。
 
当時イギリスは、アフリカから連れて来た黒人奴隷たちを使って、カリブ海の西インド諸島の開拓を進めていたのですが、アメリカ独立戦争が始まって、アメリカから西インド諸島への食糧供給ができなくなってしまったのです。
 
そこで南太平洋原産のパンノキを西インド諸島に移植して、食料問題を解決することにしました。
これを命じられたのが、バウンティ号のウィリアム・ブライ艦長(当時33歳)でした。
 
この航海はかなり長いものです。
  1787年12月23日にイギリスのポーツマス港を出港
   大西洋
   南アフリカの喜望峰
   インド洋
  1788年10月26日にタヒチ島に到着
   パンノキ積み込み
  1789年4月4日にタヒチ島を出航
 
ここまでで既に1年と3ヶ月かかっています。
 
この後、再び喜望峰を回って大西洋に入り、西インド諸島を目指すために西に向かったのですが・・・
  1789年4月28日にトンガ付近で反乱発生
 

反乱発生


全44名の乗組員のうち、12名が反乱を起こします。
艦長を含む19人を救命艇に乗せて追放し、船を乗っ取ってしまったのです。
 
反乱の主役は、フレッチャー・クリスチャン(当時24歳)という、ブライ艦長に次ぐ立場の航海士でした。
クリスチャンは、タヒチ島滞在中の半年の間に、タヒチの女性と恋仲に陥り、結婚していました。
他にも、タヒチ島に良い思い出を残している船員が何人もいたようです。
バウンティ号は、三ヶ月ほど他の島に隠れましたが、結局タヒチ島に戻ってきます。
 
とはいっても、反乱を起こしたのですから、イギリス海軍に捕まって軍法会議にかけられれば死刑は免れません。
そこで、反乱を主導した者たちは更に遠くに逃げることにし、それ以外のものはタヒチに残りました。
 
結局、クリスチャンと8人の反乱者はタヒチ島の現地人(男6人、女11人、赤子1人)を伴って南太平洋を渡り、当時の海図に載っていない、ピトケアン島にたどり着いたのです。
  1790年1月15日 ピトケアン島に到着
 

ブライ艦長


一方、追放されたブライ艦長たちは、救命艇を操って3000kmを乗り越えて、41日かけてティモール島にたどり着き、全員生還(!)を果たしています。
 
これは、すごいチームワークですね。
ブライ艦長は、反乱を起こされた責任を問われて軍法会議に掛けられていますが、結局無罪となっています。
 

殺し合いの島


バウンティ号の反乱者たちは、1790年1月ピトケアン島に上陸し、船を解体して上陸後の資材とし、自給自足の生活を始めました。
 
しかし数年後、イギリス人水夫とタヒチ人男性の間にいさかいが起きて、殺し合いと同士討ちを繰り返すことになってしまいます。
この争いで生き残った男は水夫4人のみという惨状でした。
 
18年後の1808年2月に、アメリカのアザラシ漁の捕獲船トパーズ号が島にたどり着いた時には、ピトケアン島に渡ってきた男性で生き残っていたのは水夫ジョン・アダムスだけとなっていました。
 
アダムスを長として、タヒチ人女性10人と子供たち23人が残っていたということです。
 

島の言葉


トパーズ号が島に近づいた時、カヌーで近づいて英語で挨拶し、乗組員に島を案内したのは、18歳になっていたフレッチャー・クリスチャンの息子、サースディ・オクトバー・クリスチャンでした。
 
最初に渡ってきた赤ちゃんではなく、島に到着してから、10月の木曜日に生まれた子供です。
 
サースディ・オクトバーは、アダムスに習ったのできれいな英語を使えたようですが、島での普段の生活では、英語にタヒチ語が混ざった言葉が使われています。
水夫たち(父親たち)は英語を、女たち(母親たち)はタヒチ語を使っていたので、当然といえば当然ですね。
 
アダムスはたった一冊持っていた聖書を使って、子供たちに英語の読み書きとキリスト教の信仰を教えていたといいます。
それにしても、トパーズ号がたどり着いた時にも、この島は海図に載っていなかったというのですから、忘れられっぶりがすごいです。
 

アダムスタウン


1814年には、イギリス船が島を訪れ、ここがバウンティ号の反乱水兵の生き残りの島であることを「発見」します。
これはイギリス本国に伝えられ、当時大変な話題となりました。
 
ジョン・アダムスは、1825年に恩赦され、1829年に61歳でピトケアン島で死去しています。
 
島の集落は、彼の名を冠してアダムスタウンと命名されています。
 

移住と帰還


1831年になり人口300人近くまで増えると、食料や土地の問題がおこり、イギリス政府は島民をタヒチに移住させました。
 
しかし、慣れない土地での生活に疲れたり、免疫がないことから病に倒れるものも出てきたりで、結局半年ほどでピトケアン島に戻っています。
 
1856年にも再び人口増加の問題が起こり、イギリス政府はタヒチ移住の失敗を教訓として、当時無人島であったオーストラリア領のノーフォーク島に194人の島民を移住させました。
 
ノーフォーク島はピトケアン島より大きく住みやすかったので、殆どがノーフォーク島に定着しましたが、何人かはやはりピトケアン島へ戻りました。
この二つの島は、互いに5000kmほども離れていますが、同じルーツと言葉を持つことになりました。
 
1838年、ピトケアン諸島はイギリス領となっています。
 
バウンティ号が解体された場所はバウンティ湾と名づけられ、現在でもその残骸が残っているということです。
 

注目の事件


1999年、ピトケアン島発の世界的に話題となる事件がおこりました。
 
事件の元は、「島の成年男子のほとんどが14歳以下の少女と性行為をしていた」ということでした。
 
これはポリネシア人が古くから、12歳になったら結婚する資格がある、と考えていたことから、島内の住民にとってはごく当たり前のことでした。
 
これを、島に研修に訪れていたイギリスの女性警官が、島の女性との食事中の会話で知ったことから事件になってしまいます。
イギリス国内の法律では、16歳以下との性行為が禁止されているので、違法とされ裁判となったのです。

裁判


島の成人男性7人が被告となりました。
 
これは成人男性のほぼ全てに当たるため、裁判のためにイギリスやニュージーランドに連行すると、漁業や農業などの島の生活が成り立たなくなります。
 
そのため、裁判所のないピトケアン島に、2004年9月ニュージーランドから裁判官、弁護人、法廷スタッフ、刑務官、ジャーナリストなど、合計46人が渡ってきて、裁判を行いました。
 
現地での裁判は18日かかり、これらの人々を派遣したニュージーランド側だけでも、日本円換算で11億円以上の費用がかかることになりました。
 
それ以外にも裁判所、刑務所、公務員宿舎などを建築したため、莫大な経費がかかっています。
また、イギリス本国の枢密院でも、イギリスの法律をピトケアン島に適用できるのか、合憲性について二週間もの審議が行われました。
 
結局この裁判で、7人の被告のうち、6人が有罪となりました。
禁錮刑が4人(2年〜6年)、禁固刑なしの地域奉仕が2人という内訳です。
 
未成年への性犯罪に対してのイギリスの判決としては、異例の軽い判決となっています。
イギリス本国では、終身刑もまれではないらしいです。
地域の特殊性を考慮したものと思われます。
 
ただ、この裁判で腑に落ちないのは、被害者とされた少女たちが合意の上だったと証言しているにも関わらず、罪名を強姦としていることです。
16歳以下との性行為そのものを禁止する法律があるのなら、それに対する違反とするのが当然と思うのですが。
 
ピトケアン島の住民は、この裁判は島民に対する弾圧であり、不当な扱いであると考えているようです。
 

文明化


このような事件が起きるのは、文明化もせず孤立しているからだという反省(?)のもとに、イギリスはこの裁判の後から、島の近代化を猛烈な勢いで進めました。
もはや忘れ去られた島ではありません。
 
その結果、
 ・発電機が設置され、電気が通じた。電圧は230-240ボルト。
 ・衛星放送のアンテナが設置され、海外の放送を無料で見ることができる。
 ・各家庭にDVDプレーヤーがある。
 ・衛星電話があり、各家庭に有線電話(島内の全戸に対して一斉発話できる)が引かれている。
 ・VHF無線が各家庭と船に設置され、漁業に出ている船と無線で交信できる。
 ・衛星回線を用いたインターネットが導入され、全家庭にパソコンとネットワークが設置
   (インターネット普及率100%)
 
この延長線上に、グーグル・ストリートビューへの対応があるのは疑いようもありません。
 
2005年には、警察署と学校が建てられ、イギリス本土から派遣された警察官と教師が勤務しています。
 

どうやって行こうか


先に書いたように、この島に渡るには、マンガレバ島からの船便しかありません。
なので、まずはマンガレバ島までの航空路が必要です。
 
日本からは、成田⇔タヒチ、タヒチ⇔マンガレバ島、という経路になります。
成田⇔タヒチの航空会社は、「エアータヒチ・ヌイ」、タヒチ⇔マンガレバ島は、「エアータヒチ」となります。
 
日本からは、他の選択肢はありません。(羽田も関空もないです)

成田⇔タヒチ


行き:成田→タヒチ(パペーテ空港)
  成田 月 16:35 ー (TN77) ー 08:45(同日) タヒチ
  成田 土 16:35 ー (TN77) ー 08:45(同日) タヒチ
 
帰り:タヒチ(パペーテ空港)→成田
  タヒチ 日 06:50 ー (TN78) ー 14:05 (翌日) 成田
  タヒチ 金 06:50 ー (TN78) ー 14:05 (翌日) 成田
 
距離にして、5864マイル(9437km)、時間にして11時間10分〜30分のフライトです。
 
3月の末から10月後半までは夏時間となり、
  TN77の出発時間が、20分早まって「16:15」
  TN78の出発時間が、20分遅くなり「07:10」
に変わります。
到着時間は変わりません。
 
料金はエコノミークラス往復割引運賃で、108,000円〜238,000円。
 
季節、出発日、ランクによって変わります。
普通運賃は、エコノミーで90万円以上です。(ウムム)
 

タヒチ⇔マンガレバ島


行き:タヒチ(パペーテ空港)→マンガレバ島(トテジギー空港)
  タヒチ 火 07:15 ー (VT951) ー 13:00 マンガレバ島 (1 stop)
  タヒチ 土 08:30 ー (VT956) ー 13:10 マンガレバ島 (direct)
 
帰り:マンガレバ島(トテジギー空港)→タヒチ(パペーテ空港)
  マンガレバ島 火 13:30 ー (VT951) ー 16:20 タヒチ (direct)
  マンガレバ島 土 14:10 ー (VT956) ー 17:00 タヒチ (direct)
 
だいたい3時間50分のフライトです。
運賃は、往復で30ユーロ(4400円)ほどです。
 
行きと帰りが同じ便名になっているのは、間違いではなく、周遊便という扱いだからです。
なので、行きにワンストップするVT951も、帰りは直行便となります。
 
なお、行きのVT951は、週によって途中で立ち寄る空港が変わります。
隔週で、ハオ島(Hao)、ツレイア島(Tureia)、交互に立ち寄ります。
どちらも環礁の島です。
 
VT956は、週一度の直行便ではありますが、月に一度くらいの割合で運行しない週があります。
また、ごくたまにですが、行きにハオ島を経由するときもあるようです。
 

マンガレバ島⇔ピトケアン島


何度も述べたように、この区間は船便しかありません。
年に8便の往復です。
 
どういう運行かというと、貨客船クレイモアⅡが、この航路に年に4回、三ヶ月ごとに就航し、一回の就航で2往復をこなすのです。
直近の運行を見てみましょう。
 
2015/2月〜3月運行
  第一回
   2015/2/24 マンガレバ島出港
   2015/2/26 ピトケアン島到着
   2015/3/1 ピトケアン島出港
   2015/3/3 マンガレバ島到着
  第二回
   2015/3/3 マンガレバ島出港
   2015/3/5 ピトケアン島到着
   2015/3/8 ピトケアン島出港
   2015/3/10 マンガレバ島到着
 
一回の運行はおよそ二週間で終わります。
ピトケアン島で、「3泊4日」か「10泊11日」が選べる運行ですね。
 
このような運行が2015年は、
  「5月〜6月運行 (5/26開始)」
  「8月〜9月運行 (8/25開始)」、
  「11月〜12月運行 (11/24開始)」
 
と繰り返されます。
ついでに書いておくと、2016年は、「2/23」「5/24」「8/23」「11/22」のそれぞれ開始となります。
 
なお、各運行のマンガレバ島出港は、全て火曜日になっています。
火曜日は、タヒチからのVT951がトテジギー空港に到着する日です。
 
トテジギー空港はマンガレバ島内にはなく、島を取り囲む環礁の上に造られている空港なので、9kmほどの距離をフェリーでマンガレバ島まで移動しなければなりません。
貨客船クレイモアⅡは、VT951の客の移動を待って、夕刻(17時頃)に出港するということです。
 
費用は、往復で5000NZドルとなります。(46万5000円)
 

自力で


今まで、「行ってみたい」で書いてきた島は皆そうなのですが、外洋を航海できるヨットや船舶を持っていて、外洋を渡れるライセンスがあれば、自力航行で行くことは勿論可能です。
 
ピトケアン島のHP「ピトケアンへようこそ(英語)」を見ると、そういう方々へのメッセージもしっかり組み込まれています。
 
日本からも、自分のヨットで行っている人もいるようですから、お持ちの方は是非。
 
参考
wikipedia 「ピトケアン諸島」「ピトケアン諸島の歴史」「ピトケアン諸島少女性的暴行事件
wikipedia 「バウンティ号の反乱
ピトケアン政府HP
ピトケアンへようこそHP
世界240カ国バックパック「パペーテ、マンガレバ島、ピトケアン島」 
世界飛び地領土研究会「ピトケアン島
2人の世界旅「ピトケアンの旅を終えて
エアータヒチHP
エアータヒチ・ヌイHP
フライトマッパー「GMR-PPT」など

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